2009.05.27
鉄砲組同心として活躍した甲賀組
遠藤宗家第十四代当主 遠藤左太夫
百人町の名前の由来は鉄砲組同心の組屋敷があったことに由来しています。鉄砲組同心は通称「百人同心」と呼ばれていたので、この名前が付いたのです。江戸時代主な忍者集団として「甲賀組」「伊賀組」「根来組」「二十五騎組」という四つの組がありました。

現在旧江戸城内(皇居東御苑)に残る江戸時代後期に建てられた百人番所。この建造物は数少ない江戸時代の江戸城内の建物としても貴重な存在。
一組に与力30人、同心100人から組織され、これらは江戸城内にある鉄砲組同心百人番所にそれぞれ二十五人ずつ配属させて(25人掛ける4組で百人)百人同心を組織していました。この「百人同心」は平時には江戸城の警備などに従事し、戦時には将軍の隊列を護衛する重要な役目を担っていました。
東京の地名から見る百人同心の史跡
百人同心は「甲賀組」が神宮球場付近(遠藤宗家檀家 高徳寺が青山に現存・天正7年開創)、「伊賀組」が大久保、「根来組」が市ヶ谷、「二十五騎組」が内藤新宿付近に屋敷を与えられていました。この名残が現在の東京の地名に見られます。「伊賀組」の名残が新宿区百人町で、地図を見るとこの周辺が不自然に縦割りの道となっていますが、これが「伊賀組」の同心組屋敷の名残です。「根来組」の名残が新宿区市ヶ谷の矢来町に見られます。「根来組」の屋敷が竹矢来で囲まれていたことに因むと言われています。また隣接する「二十騎町」も何らかの関係があると思われます。「甲賀組」の名残は現在見られないが、明治期には青山百人町の町名が存在していました。
甲州街道沿いに固まる鉄砲組同心屋敷
こうして見てみると鉄砲組同心屋敷が甲州街道に固まっていることが分かります。これは江戸城に変事があり、万が一に将軍が江戸を脱出する際に、甲州街道を利用するために、このような配置になっていたのです。将軍は江戸城半蔵門から抜け出すと鉄砲百人組に守られながら甲州街道をひたすら進み、八王子で八王子千人同心に迎えられ、これに護衛されながら最終目的地の甲府へと向かうのです。この辺の事情に付いては今回の題とは若干異なるので詳細は控えますが、鉄砲百人組の存在意義によって屋敷地の配置が決まっていたのです。こうした江戸時代の名残が今の東京にも多く残されているのです。
遠藤潔の父であり遠藤宗家第十七代当主 遠藤寛の母方の従兄弟である太田資和の祖先太田 道灌(おおた どうかん/おおた すけなが)は室町時代の武将。武蔵国守護代。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。
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